1969年大阪生まれのユーリャです。
これまで子宮頸がん検診は毎年受けていたのですが、ふと思い立ち、2011年12月に初めて、産婦人科クリニックで子宮体がんの検査を受けたところ、ほぼ確実に悪性で手術を要すること、ステージも決して軽度ではないであろうことを告げられました。
自宅近くの総合病院に河岸を変え、年末から翌年1月末にかけて検査に検査を重ね、検診からおよそよ2か月後、間違いなく子宮体がんという診断がくだりました。
担当医師の治療方針は標準治療どおりで、準広汎子宮全摘出術+骨盤内・傍大動脈リンパ節かく清+化学療法6クールとのこと。
命を救うのが職務とはいえ、命さえあればあとはどうでも、と受け取れるかのような医師の「熱意」に違和感をおぼえました。
旅行と畑仕事が大好きな私は、リンパ節かく清によるQOLの低下を問題視し、他に治療方法はないかどうかをメインテーマに、がん専門病院でセカンドオピニオンを得ることにしました。
ドクターはそのために必要な資料を快く、しかも急いで出してくれました。
セカンドオピニオンも全く同じ内容と治療方針で、末期ではないが楽観できるレベルでもないとの言葉に、その専門病院への転院を決意。ですが、ここまできてなお、外科だけではなく、他のがん治療を専門とするドクターの意見も聞きたくなり、異例ではありますが、転院先ではなく、最初の総合病院の放射線治療医のもとを訪れました。
サードオピニオンです。
放射線医の意見はファースト、セカンドと寸分たがわず同じものでしたが、温かい言葉で勇気づけてくださいました。結局は、上述の標準治療を受けることに。
自分の出した結論は結果的に同じだったかもしれませんが、苦痛に屈しやすい私の、決心と納得を固めるためには、3人の医師が必要だったようです。
標準治療にしたのは、積極的な理由だけでは、実はありません。実績の少ない治療法を選んだ結果、身にふりかかる出来事の責任を、自分だけで負う自信が持てなかった。
最後には自らすすんで長いものにまかれたのです。
選択の自由があり、どんなに考え抜いた末のチョイスをしたとしても、同時に選べないものがある以上、後悔が、まったくないということはない、というのが実感です。
でも、あの時の決断に、今も心から納得しています。
決めるのは結局自分ですが、自分一人「だけ」で決めなくてもいいんだと思いました。むしろ、身内か他人、玄人か素人、知己のいかんを問わず、色んな人を巻き込んでやれくらいの気持ちでもいいかもしれません。
多ければ多いほどいいとは限りませんが……。
最終検査結果を受けてから1か月余り後の2012年3月、同専門病院で7時間の手術を受けました。術後診断は、術前の見立て通り。
組織への浸潤は1/2以下だったものの、骨盤内リンパ節の2か所に転移していたとのことで、子宮体がん、当時の基準でステージIIIC。
執刀した主治医のすすめがあったとはいえ、辛抱のきかないこの私が、手術を終えた時点で、抗がん剤治療を受けることにした当時の理由は、
@ 5年生存率が10%上がることに魅力を感じたから。
A 化学治療をしても根治はできないけど、しないならしないで、再発の恐怖が自分にとって耐えがたいものになりそう。
B できることをしておけば、たとえ再発しても達成感めいたものは得られる気がする。
C 抗がん剤が効かない/使えない場合もある。自分に効果があるかもしれないとされる薬があるなら、それを試すチャンスを捨てるのはもったいないから。
ただし、何を優先するかによって、結論はまったく違ってくるでしょうし、この問いに正解はありません。そのかわり、不正解もないということを強調したいです。
同年9月に化学治療(DP療法)を、無事6クールやり果せました。抗がん剤の副作用は色々あったものの、今思えば、私にとっては耐えられないものではなかったです。
なぜなら、その副作用には必ず終わりがあるからです。
消えるのに1年2年とかかることが稀にあっても、一生残る副作用はないという主治医の言葉、私に限って言えば、そのとおりでした。
が、この問題には個人差が大きいのも確かです。
この病気にかかったが最後、これからの人生、再発という恐怖におびえながら、大きな爆弾を抱えながら生きていくのかと、最初は気が滅入りましたが、よくよく考えたら、肉体の死という時限爆弾は、いきものが皆等しく抱えているものです。
その点は、いま健康だと思っている人とだって何ら違いはないし、命が危険にさらされる原因は、他にいくらでもあります。
今まで自分は意識していなかった、それだけのことなのです。
今のところはですが、強いむくみ程度で、リンパ浮腫になっていません。
夕方には両足、特に付け根がとても重くなり、歩くのがおっくうですし、疲れやストレスが蓄積すると、痛みが走ることもあります。
が、その腫れを翌日にもちこさない程度に養生しながらつきあっています。
以前は浮腫への不安のあまり、近所の専門病院の先生に対して不信感を抱き、リンパ浮腫だけで、別の病院と二股かけたりしていました。
今は、少し気が済んで、半年ごとの定期健診は家に近い方へ、有事の際にはもう一つの病院へ、といったように使い分けています。
化学治療を終えて半年ほど経ち、少しずつ日常を取り戻しつつあると自分でも実感し始めたころでしょうか。
私は本来とても好奇心旺盛で、食い道楽な人間なのですが、肉体的には何の問題もないのに、
食べたいもの、やりたいことが根こそぎなくなってしまい、家から出られない、入浴どころかトイレに行くのもおっくう、といった状態に、突然おちいりました。
時短ながら何とか職場には毎日行くのですが、治療終了した頃より疲れやすいし、ふりはらってもふりはらっても、無気力と虚無感にまとわりつかれる感じ。
絶望感とも少し違うのです。欲求と自己肯定感がこっぱみじんになると、人に助けを求めたり、好きなことをするどころか、それがなんだったか思い出すことすら難しくなります。
立ち直るとっかかりになるかと、大好きな海外一人旅に出かけたりもしたけれど、行きたくて行ったというよりは、まとまった休暇中、何にもしないで家にいるのだけは勘弁してほしかったから行っただけ。
もちろん旅を楽しみはしたけれど、帰国後、日常の日々というやつが苦痛苦痛で、はた目にはそう見えないけれど、実は、生存しているだけで、いっぱいいっぱい。
唯一の望みといえば、雷かなんかに打たれて、一日でも早く、苦しまずに一瞬でこの人生が終わること。
支えてくれる人がいるのに、生きたくても亡くなっていく人だっているのに、こんなことを考えてしまうことにまた自己嫌悪。
おかしい、と思い始めてから4か月後の2013年6月、通院を続けている同専門病院の腫瘍精神科でうつ病と診断されました。
よく「心の風邪」などと表現されますが、そんな可愛らしいキャッチフレーズ、よう言わんわ。
4種類ほどの抗うつ剤を、1種類ずつ試してみて、どれも自分には合わず、数か月で服用をやめましたが、アロマテラピー、バッチフラワーレメディ、東洋医処方の漢方薬、
カイロプラティックと、自分に合いそうなものをいろいろ試してみて、それぞれが少しずつ、違う場所に違う方向から効いている感じです。
そして、家族に限らずいろんな距離の人との関わりが、何よりの「薬」です。
復職してから9か月ほどたって、大切にしている職場で、お互いの理解が、以前よりは深まったことも回復への一歩になったかもしれません。
自分はまだ恵まれている、世の中にはもっと大変な状況もあるとおのれを奮い立たせようとしたこともありましたが、その比較には意味がないと思うようになりました。
「ありがたい」という気持ちは、自然にわいてくるぶんには救いになりますが、「感謝すべきだ」という回路にはまったとたん、ありがたいと思えない自分を責めることになりかねません。
そんな上っ面な「人生讃歌」など地面にたたきつけ、いやになった時は天に向かって、呪いの言葉を吐きたおす。それにも飽きて諦めた揚句ふて寝する、やさぐれもする。
でも時々は、そんなに悪くないかもと思う。近頃はそんな日々です。
死ぬ覚悟よりも、生きる覚悟をする方が難しいということもあります。
どちらの覚悟も「できた!」とは、およそ言い難いですが……。
なにごとにも必ず終わりが来る。今の私にとっては、その自然の摂理が何よりの救済になっています。
嬉々として、とは未だ言えませんが、「その時」がくるまでは、この身体で、この浮き世につきあうようです。
ぼちぼちやります。